本書はアマゾンオーディブルやオーディオブック(おすすめ)で耳読みすることができます。声優さんと演出がついているオーディオブック版が個人的におすすめです。
著者紹介
今村 昌弘(1985〜)

岡山大学医学部保健学科を卒業後、放射線技師として働きながら小説を書き続ける。29歳で勤めを辞めて執筆に集中。2017年、『屍人荘の殺人』で第27回鮎川哲也賞を受賞する。
受賞作について、審査員の推理作家・北村薫は「奇想と本格ミステリの融合が、実に見事。この頭の働きには、素直に脱帽するしかありません」と評している。
同作は「このミステリーがすごい!2018」第1位、「2018 週刊文春ミステリーベスト10」第1位、「2018 本格ミステリ・ベスト10」第1位、第15回本屋大賞第3位、第18回本格ミステリ大賞など、デビュー作ながら高く評価された。
2019年には映画化された(こちらは評判が悪い)。
受賞時点の紹介では「フリーター」「兵庫県在住」と記されている
内容紹介(出版社の文章)
神紅大学ミステリ愛好会の葉村譲と明智恭介は、曰くつきの映研の夏合宿に参加するため、同じ大学の探偵少女、剣崎比留子とペンション紫湛荘を訪れる。
しかし想像だにしなかった事態に見舞われ、一同は籠城を余儀なくされた。緊張と混乱の夜が明け、部員の一人が密室で惨殺死体となって発見される。それは連続殺人の幕開けだった!
奇想と謎解きの驚異の融合。衝撃のデビュー作!
まとめ(ブログ主の勝手なまとめ)
ゾンビ50,000体+密室サスペンス = 普通は書くのを断念するプラン
本書は、ロックフェスの観客50,000人が全員ゾンビとなり、その近所でほそぼそとキモだめしをしていた学生サークルを襲うが、学生サークル内では地味な連続殺人が起きる、という話だ。
通常、こんな荒唐無稽でどうやっても収拾できない内容の小説は、思いついても書かない。
だが、この著者の今村氏は気合と根性で、これを強引に描き切った。
その気合・根性・強引さが、本書を異次元のものに見せている。
世界が終わりかねない状況で、地味な美少女ものの復讐劇
本書は、通常のサスペンスが持つハラハラドキドキ感に加えて、さらにプラスした大きな圧力を持っている。それは、いつ物語が破綻するか、滑稽な展開になってしまうか、という強烈な不安だ。
途中、地味なサスペンス要素にゾンビ要素が入ってくる時、誰も「どうやったってこんな設定はうまくいくはずがない」と思うだろう。
ミステリー賞4冠とか100万部売れたとかいって、駄作をつかまされたんではないか? 時間の無駄ではないか? そんなことを私は何度も考えたし、そう思った人は少なくないはずだ。
理論上、不可能。でもやればできちゃった=新ジャンル
設定が極度に珍妙なテンションを生み出し、しかしながら物語の語り口はずっとシリアスで抑さえつけられた緊張の糸を継続している。笑えるような笑えないような状況が続く。
明らかにおかしな設定なのに、著者は大真面目に相当シリアスに記述する。
どんな読書好きも、正直こんな本を読んだ経験はないのではないだろうか?
典型的な一発屋の小説にも思えなくもないが、それにしては知識が凄い
本書の書き方は基本的には、ライトノベルで、美少女エロサスペンスと言っていい。だが、美少女要素は設定の強引さにかき消され、エロ要素はむしろやればやるほどコメディになる。
ゾンビに囲まれて、建物の6割を占拠されているのに、おっぱいの形がどうとか、密室殺人の定義はどうとか、ずっとやるのだ。途中、ゾンビ映画のマニアがずっとゾンビ映画の歴史を語りつづけて、しまいには、危機的状況でゾンビ映画を6人で真剣に見たりする。
この違和感が後半ずっと続く。
書き言葉は、脳の層を簡単に分割できる
本書を読んでわかることは、人間の意識は「書き言葉に支配されている」ということだろう。結局、現実がこうだ、とか、感情的には普通はこうだ、とかいうのが、目の前に置かれた文字に勝ることはない。我々は、もしかすると現実を見ていないのかもしれない、とすら思う。
そういうものを、本書を読むことで、まとまった時間として体験できる。
色んな意味で、本当に面白い小説なんだと思った。
Q:どんな人が読むべきか?
A:変でも、おかしくても、最後まで作品に付き合える人。だと思う。
正直、本書は「第27回鮎川哲也賞」という公募コンペでなければ、原稿を渡された読者・審査員が最後まで読まない可能性が高かったと思う。コンペは、最後まで読み切るのは義務だ。
そこから、出版に展開したから成功した。
逆に言うと、この展開しかあり得なかったと思う。なので、信用できる人の口コミで〜、とか以外で本書を読むのに適している人は、単純に「一度手をつけたら最後までやめない人」ということになる。
Q:なぜ、これほどの奇妙な設定を完結できたのか?
A:著者が人間の記憶のメカニズムを熟知しているからじゃないかと私は思う。
小説や映画といった物語は、通常、時間芸術と呼ばれる。
時間芸術というのは、つまりは一気に全体を把握することはできず、細かなことを忘れながら最後までついていき、自分の中の残ったものに目を向けるという評価作業を伴う。
その中で「ここまでは許せる」もしくは「そんなこと覚えてられない」、「まあ、それはどうでもいいかな」という「破綻への許容」が人間にはある。それが、本書によって「思っているよりも全然許容範囲がデカかった」ということを証明されたと言える。
簡単に言うと、今までまたいで飛んでいた走り高跳びで、背面跳びが成功したとたん、じゃあ、背面飛びがいいよね、という本来ギリシャ神話の「敵陣から大きな障害を飛び越えて逃げ切るための競技」というコンセプトを全無視するようになる的な感じだといえよう。
本来のルールがどうでも良くなるのだ。
数十年後に振り返ってみると、もしかすると本書は大きなパラダイムシフトになっているかもしれない。なんだか、読んでみてそんな感じのする、とても不思議な小説だといえる。
本書はアマゾンオーディブルやオーディオブック(おすすめ)で耳読みすることができます。声優さんと演出がついているオーディオブック版が個人的におすすめです。