青森ねぶた祭の消滅を描いた短編作品(2018年完成?)
Facebook経由で、知人から以下のような10分弱のフィクションドキュメンタリー作品が送られてきて、それがことの他、私の期待を裏切り凄い内容だったので紹介したいと思う。
※もちろん、低予算で撮影されているので、そういうのを見慣れた人は、だめかもしれない。
まず、この動画は、いったいどのような手法で撮影されたのか全くわからない。
出演者がプロなのか、アマチュアなのかわからない上に、セリフを書くのが不可能なアドリブ的なセリフがあるし、そもそも出演者が津軽弁だ。だが、なまりはあるが、意味は聞き取れる。
ストーリーをまとめるなら、こんな感じだろう。
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20年後か30年後くらいの未来を想定している。その頃、青森の街中(青森市?)で、誰に聞いてもあの有名な祭りである『ねぶた祭』を知るものはいない。
おかしい、そんなはずはない(この撮影クルーは民俗学の専門家?)。
そう思ったディレクターは、無駄かもしれないと思いながらも、どんどん街中の人々にインタビューを続けていく。
途中で意味もなくインタビューを避ける人が出初めて、それらが高齢者であることに気がついたディレクターは、ある程度年齢がいった人間にインタビューすれば、何かがわかるかもしれないと思い始める。そして、ようやく、ねぶた祭をギリギリ知っているらしい、町内会のおばちゃんらしき二人組にいきあたる。
彼女たちは、ねぶた祭りは、政治家の裏金などの揉め事で消えたと言った。
だが、それに対し、少し妙だと悟ったディレクターは、さらにインタビューを続ける。
そして、もろ地元民の古着屋のオーナーに行き着く。
彼らの語った、真実の『ねぶた消失の理由』とは……。
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そんなストーリーだ。基本的はコメディタッチで描かれていて見やすい。
日本全国で2年間、夏祭りが消えた
この映画はどういう理由で撮影されたのか、不明だ。
しかしながら、私たちは今、コロナの影響で実質の自粛を求められ、全国的に夏祭りが禁止されている。調べてみると、どうやらねぶた祭も自粛で開催されていない。
夏祭りには、後継者問題が山積みである
そもそも、全国の数ある夏祭りには、後継者が育っていないという問題があるのを聞いたことがある。そんな中で2年間も、あるいは来年もできない可能性があるので、3年間も祭りをしなければどうなるか? 下手したら、かなりの数の祭りが『もうしんどい』とか『継続はこの機会にやめよう』とかいって中断する可能性が高いのではないか?
そして、その時に、大体消滅するもの全般につきものだが、
人は、なんでその祭りがなくなってしまったのか、さえ、忘れてしまうのだ。
それは、コロナぐらいの大きな出来事でも十分考えられる。
そもそも夏祭り自体GHQが戦後復興ために復活させたもの。従来の役割を終え、消滅に向かっても不思議はない
ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』という本がある。

ジョン・W・ダワー (John W. Dower, 1938年6月21日 – ) は、アメリカ合衆国の歴史学者。マサチューセッツ工科大学名誉教授。専攻は、日本近代史。妻は日本人。米国における日本占領研究の第一人者であり、1970年代の日本近代化論の批判でも知られる。『敗北を抱きしめて(上・下)』で、米国ピュリッツアー賞、バンクロフト賞、第50回全米図書賞(ノンフィクション部門)などを受賞。
本書では、第二次世界大戦で敗北し、米国の支配下に落ちた日本がいかにして復興していったのかが的確に、かつ日本人には隠されてきた事実なども含めて詳細に記されている。
その中で、GHQが行った戦後復興政策について触れた部分がある。
GHQは東京語を標準語にし、逆に地方には祭りを残した
GHQの使命は、日本を管理して米国の利益国にしつつ、自立していける経済力をつけさせることだった。そのためには、全国共通の言葉(意思疎通)と地域に根付く、産業や営みの維持が必要であった。そこで彼らが考えたのは、テレビ・ラジオ・新聞などによる標準語(東京語)の浸透と、地域祭りの復興である。
当時の日本人は、地域ごとにバラバラでつながりがなく、その反面、東京に一極集中が行われ、地域に人口がうつらないなので、土地があまり、貧富の差が激しい、歪な国であったのだ。
歴史資料だけで、地域祭りを復活させ、祭りがないエリアには、阿波踊りなどの代表的なものを移植し、今日に至る
日本の復興には、出稼ぎではなく、地域に根付いた復興が必要だとGHQは考えていた。そのためには、夜這いなどと言った生殖行動をともなった、若者が好む夏祭りの復活が必要。
調べてみるてわかったが、このねぶた祭のGHQに掘り越され、青森のさまざまなエリアに移植された祭りの中の一つで、強引に少ない資料で今日の形態になっている祭りであることがわかった。
同じようなことが、例えば高円寺の阿波踊り(四国からの移植)、阿佐ヶ谷の七夕祭り(宮城からの移植)などとしても残っている。
ということは、これらの祭りは元は不要であったが、政策上のために復活されたものであり、役目を終えたら消えてしまっても不思議ではないものである、と言えなくないのだ。
それを踏まえてみると、本作はただのコメディ的なフィクションドキュメンタリーではない。それどころか、この監督(誰かはわからない)は、そんなことを知っていて作ってさえいるような気がしくる。だったら、相当すごい。
以上が、ざっとこの『消えた祭り』を見て、私が思ったことである。
曲がりなりにもコロナが収束に向かいつつある今。
この映画が、未来の予言になるかどうかは、来年以降の地域の力にかかっているのかもしれない。