『全裸監督』『80’s』を読んで
この記事を書こうと思ったきっかけは、村西とおる監督を扱ったノンフィクション『全裸監督』と橘玲氏が80年代を限定して書いた『80’s』を読んだあとに、ふとしたことでラース・フォン・トリアーのWikipediaを読んだからだ。
ウィキペディアには、ラース・フォン・トリアーの概要としてそれらしいことが書かれているが、重要なことがほとんど書かれていない。彼の真骨頂である90年代、ラース・フォン・トリアーの引き起こしたムーブメントをリアルタイムで知る私にとって、何か強い違和感を感じた。
ラース・フォン・トリアーという監督の凄さを改めて検証したい。
なぜなら、彼は“清貧と貞潔と悪趣味”という反商業的な要素を使いながらも、逆に、ヨーロッパエンタメ業界や衛星放送やソニー、パナソニックといった日本企業などを味方につけ、アンチハリウッドとして、大衆的に成功した珍しい経歴を持っているからだ。
ラース・フォン・トリアーとは

ラース・フォン・トリアー (1956年- ) は、デンマークの映画監督。コペンハーゲン出身。ドグマ95という映画の方法論に大きく関与しているが、その他にも様々なスタイルの映画で知られ、1980年代以降デンマークの映画界に対する他国の関心を高めた中心人物だと見なされている。過激な表現で物議をかもすことでも有名な監督である。
日本でのブーム:ラース・フォン・トリアーと中田英寿
私の家は90年ごろからたまたま衛生放送が視聴ができる環境にあった。
その中で、ラース・フォン・トリアーがお茶の間に認知された時期があったのを記憶している。それは『キングダム』というデンマーク発のヨーロッパホラーがWOWOWでの放映をきっかけにブームになった時期だ。
『キングダム』は、母国デンマークで視聴率が50%(国民2人に1人が見た)ホラーテレビシリーズとして知られている。その監督が、当時まだ30代のラース・フォン・トリアーであった。彼は、黄色と黒のモノトーンと、ハンディカムを多様した独特の演出を本作で試みた。
WOWOWは『キングダム』の放映権を買い付け、数回の放送を続けながら、その放送を宣伝として、続編とした制作された『キングダム2』(1997)をほぼリアルタイム(日本の放送は1998年)で放映するという二つのプランで、まだ当時日本では誰も知らなかったラース・フォン・トリアーの特集を組んだ。
その結果、三浦知良のジェノバへの移籍(1995)、中田英寿のセリエAペルージャ移籍(1998)と共に爆発的なヒットを生み出す(再放送やレンタルも含む)。
もしかすると『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『奇跡の海』などの代表作を知らなくても、こっちの『キングダム』は知っているという人の方が今でも多いかもしれない。
それだけ、本連作シリーズは日本で話題になった。

WOWOWは、開局した1984年からレオス・カラックスなどのヨーロッパ映画のニューウェーブを国内では先駆けてに放送。放映権の高かったハリウッド映画以外の新規市場に活路を見出そうとしており、放映権としても安価だったアメリカの低予算テレビシリーズ『ツインピークス』(監督:デビット・リンチ)もWOWOWによる放映で火がついた。
当時はミニシアターブームで、ヨーロッパ映画も人気が出始めていたころである。これらの下地があったため『キングダム』のヒットを生み出せたと言える。これに、ヨーロッパのスポーツ界のアジア進出が重なるという幸運があった。
ラース・フォン・トリアーは、実力だけではなく、さまざまな商業的な要因が重なることで、大衆作家として日本では最初から受け入れられた。おそらく、これと同様なことが世界各地で起きており、低予算作家であるにもかかわらず、幸運なスタート切れたのだろう。ここに、さらに後述するパナソニックとソニーによるデジタルビデオカメラと、デジタルシネマ形式の普及戦略という要素が加わり、彼を世界的な作家へと押し上げていく潮流が生まれる。

世界的知名度を確立後、ドグマ95を提唱
この『キングダム』シリーズの成功の後、ラース・フォン・トリアーは、映画に再参入する。
彼は、以前からデンマークの映画界では期待された作家だったが、それでも一部の人間しか知らないような作家だった。そこから『キングダム』で獲得した知名度を、うまく活用して映画監督としてのキャリアを構築していく。
doguma95(ドグマ95)という映画作家としての『純潔の誓い(清貧と貞潔の誓い)』である。
ドグマ95の概要は以下の通り
- 撮影はすべてロケーション撮影によること。スタジオのセット撮影を禁じる。
- 映像と関係のないところで作られた音(効果音など)をのせてはならない。
- カメラは必ず手持ちによること。
- 映画はカラーであること。照明効果は禁止。
- 光学合成やフィルターを禁止する。
- 表面的なアクションは許されない(殺人、武器の使用などは起きてはならない)。
- 時間的、地理的な乖離は許されない(つまり今、ここで起こっていることしか描いてはいけない。回想シーンなどの禁止である)。
- ジャンル映画を禁止する。
- 最終的なフォーマットは35mmフィルムであること。
- 監督の名前はスタッフロールなどにクレジットしてはいけない。
今考えるととても無茶な制限だが、これは実はデジタルビデオ(主に家庭用ハンディカム)の性能が起因している。つまりは、家庭用のハンディカムで頑張ってできる範囲で映画を撮ると、必然的にこの誓いの範囲に収まるケースが多くなるのだ。
90年代のハンディカムの映像は、違和感が強く、嘘っぽいので、殺人(血糊や傷の表現がうまくいかない)やサスペンスの演出に向かなかった。もちろん、時代劇や歴史ものにも敬遠され、ドキュメンタリー以外のほぼ全ジャンルで拒否に近い状況だった。
また、そもそもデジタルハンディカムにはモノクロはない。あっても、セピア調(『キングダム』のような半端なモノクロ)くらいだ。そもそもの画素素数が低すぎる。フィルムへのコンバートは、あくまでも映画祭や映画館での上映が、それしかできなったというだけの話である。
高コスト化戦略を仕掛けるハリウッドに抵抗
ドグマ95のこれらの誓いは、アンチハリウッド運動と捉えられることが当時は多かった。
アメリカは、1980年代の低迷期間を経て、スピルバーグとジョージ・ルーカスによる、合成やCGを駆使したSF要素の強いハイバジェット映画で、世界戦略を組み立てている最中であり、この頃から豪奢な上映施設を持つシネコンチェーンがショッピングモールと提携しながら増えていた。
当時のハリウッドに対して、ヨーロッパの抵抗勢力といえば、ゴダールらのヌーベルバーグ組やカンヌ国際映画祭出身のインテリくらいなもので、それらのほとんどは1970年ごろからアメリカンニューシネマに興行的に負けることが多く、彼ら自身もアメリカ映画に心酔することを隠さなかった。負けを認めて、それを公言していたのだ。
また、トレインスポッティングやなどのイギリス系の作家は、1990年代にブームを作ったものの、いずれもアメリカに移籍するなど、ヨーロッパ映画業界を重視する傾向は少なかった。
そんな中で、ラース・フォン・トリアーの『ドグマ95』は、反ハイバジェットの運動として機能し、少ない資本で、大きな興行を挙げるようになる。
ドグマ95の元ネタは『米国スケーターカルチャー』
そもそもドグマ95の源泉は何かというと、明らかにアメリカのスケーターカルチャーである。アメリカの80年代〜90年代のスケータービデオをラース・フォン・トリアーを見ていたということを、彼自身、多くのインタビューで語っている。
アメリカのスケータービデオは、スターであったマーク・ゴンザレスを彼のファンや取り巻きが撮影したビデオを中心に、魚眼レンズやワイプなどのチープな効果を演出に組み込んでいった。やがてそれらはスケートショップだけでは無く、ケールブルテレビや地方の劇場で上映もされていく。そのほとんどが、ソニーやパナソニックの家庭用ハンディカムで撮影されている。
このような日本発の黎明期のデジタルビデオ技術は、プロの現場では長らくそのクオリティの低さゆえに使用されなかった。だが、それを堂々とテレビモニターや巨大スクリーンに使用して、その画質の低クオリティさに演出上の活路を見出そうとしたのが、アメリカのスケーターカルチャーである。
その中で少しずつ、フィクションでも使えそうなケースが見えてくる。
例えば、それは俳優の少し大袈裟な演技だったり、極端な手持ちのズームによる顔の多映しであったり、歌や音楽をベースの芝居だったり、感情だけでは無く、嘘くさいゼスチャーや暴力の演技が意外に向いているのではないかといった具合だ(スケータービデオは、スケートをする前、街に繰り出す間に「寸劇」を入れるビデオが非常に多かった。もちろん全員素人だ)。
これらを組み込んでいったのが、1990年代中期のラース・フォン・トリアーの作品だと言える。
つまり、テイストも手法も質感も、実はアメリカ由来なのが『ドグマ95』である。ラース・フォン・トリアーは、アメリカの手法で反アメリカのふりをして見せたことになる。





談合とも言われたダンサー・イン・ザ・ダークのパルムドール
ラース・フォン・トリアーの逸話として、日本人にはあまり知られていないが、海外の映画祭や私が学んだ東京藝大界隈で盛んに言われていることがある。
それは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のカンヌ国際映画祭パルムドール談合説だ。
え、まじ、談合とかやめて。と言わないで聞いてもらいたい。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は歴史に残る素晴らしい作品だ。だが、確かに普通に考えて、倫理的にも内容的にも、すんなりカンヌでパルムドールという内容ではないのは確かだ。
ここでは、ラース・フォン・トリアーが同作をつくるにあたってどのような下準備をしていたのかに焦点を絞って述べていきたいと思う。
同作でリバイバルしたカトリーヌ・ドヌーブは、ミュージカルの元女王

このダンサー・イン・ザ・ダークで主演ビョークの次に目立つ、助演のカトリーヌ・ドヌーブ。彼女は、日本ではそれほど知られていないが、実はヨーロッパでは誰もが知っているミュージカルスターである。第一に美人だ。しかも若い頃は、ダンスと歌が尋常じゃ無くうまかった。

まず、カンヌ国際映画祭は、実はフランスをよいしょする映画がパルムドールを取りやすいという、いかにもフランス的な要素がある(そのために近年、外国人審査員長を採用するようになったが)。
当時、忘れ去られていたドヌーブを監督を起用したのはキャスティングとしての戦略である。このくらいの戦略は、まだ序の口である。
そして、次に設定としての戦略がある。
ドヌーブの採用と並行して、彼女とフランス映画の一時代を築いた巨匠ジャック・ドゥミへのオマージュが、ダンサー・イン・ザ・ダークには散りばめられている。

ダンサー・イン・ザ・ダークはジャック ドゥミのデビュー作をダブらさせる設定。主人公シングルマザー、相手役アメリカ人のワル



ラース・フォン・トリアーは、意図的に『ダンサー・イン・ザ・ダーク』をジャック・ドゥミの長編デビュー作『ローラ』に似せたと言われている。
いずれも、ヨーロッパ人(セルマは移民の娘)のシングルマザーがアメリカ人のワルの男に騙されているという図式。当然ラース・フォン・トリアーの方はどぎつい展開で悪趣味だが、オマージュとしてはこれ以上のものはないというくらいのものだ。
また、全編に渡ってセルマは、さまざまな国のヨーロッパ人たちがナチスからオーストリアに逃げてきた脱国者のミュージカルである『サウンド・オブ・ミュージック』を歌うという徹底ぶりで、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はフランスとアメリカの映画の強烈な引用作としての体をなしている
また、フランス国内での活動に固執したヌーベルバーグの中でジャック・ドゥミは、全米進出や規模の拡張を生涯にわたって求めるなど、異色であったが、興行的にはアメリカのミュージカル文化に太刀打ちできず、興行的にも惨敗した面があるため、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のモロに反米的な嗜好には、フランス人をひきこむものがあったのは間違いない。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の戦略を黒沢清も批判
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、このようにヨーロッパ人が、あからさまにカンヌで使えるカードをフルスペックで導入した作品であり、ここまでやられると、日本のような文化も国も遠方に位置するアジア圏の監督はどうすることもできず、半ば反則だと言われるのも当然だろう。
私の先生である黒沢清もこの説を唱えている一人で、彼はラース・フォン・トリアーと同い年でもあるために、非常にこのことに腹を立てていたのを記憶している。

以上です。最後までお読みいただき、ありがとうございます。
(何度も言いますが、私は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がものすごい好きです)