著者紹介
トーマス・マン(Paul Thomas Mann、1875年6月6日 – 1955年8月12日)
富裕な商家に生まれる。処女小説『転落』が認められて文筆を志し、1901年に自身の一族の歴史をモデルとした長編『ブッデンブローク家の人々』で名声を得る。その後市民生活と芸術との相克をテーマにした『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』などの芸術家小説や教養小説の傑作『魔の山』を発表し、1929年にノーベル文学賞を受賞。
本書を読むメリット
- 若年層でも、慎重さや楽観さを内包した的確な死生観を体感できる
- ヨーロッパ文化を操る「フリーメーソン」「イエズス会」に多くが割かれている
- ドイツを軸とした外交情勢、フランス、イタリア、ロシアなどの関係性がわかる
- 多くのヨーロッパの権威性がこの本にねざす思想でできていることを知る
ベルリンを旅行した時に勧められた『魔の山』

私は、2007年ごろに映画の学校に通おうと、ポツダムテレビ映像大学のあるベルリン郊外に数ヶ月滞在したことがあった。結果的に東京藝術大学大学院に入学するのだが、この時、ドイツは南から北までいろいろ巡って様々な人と話す機会があった。
その時、フンボルト大学(ベルリンの東大みたいな国立大学)の学生(オランダ人・女性)から、勧められたのはこの『魔の山』であった。その学生はこの本を幼少期から読まされたという。また、ライネフェルデ(旧東ドイツ・ロシアの近く)で在住の友人からも、この本の話を聞いていた。
ということで、私がこの本を知った馴れ初め的な話はさておき、ここからはその内容について、どうして『魔の山』のような、日本人からしたらどう考えても教養小説と思えない、エゲツない内容の小説が、ヨーロッパでそのような(青少年少女向け)扱いなのかを、私なりに触れていく。
あらすじ
簡単なあらすじとしては、主人公のハンス・カストルプは、幼馴染の友人を、今でいうダボス(スイスの山奥)にある結核の療養所に見舞いに行った。軽い気持ちだった。自分は病気ではないし、風光明媚な観光地にタダで泊まれるし、でウキウキとした二週間になるはずだった。
だが、結果的にハンス・カストルプは、その療養所で体調が悪化し、結核と診断されて、自分もその地獄のような施設に留まらなければならなくなる。という話だ。
欧州の高学歴家庭の子息たちが本書を読む理由
私にその本のことを教えてくれたオランダ人の女性は、おそらくヨーロッパでもかなり上流の育ちのような感じがした。彼女は英語と日本語が話せ、日本語は大阪弁チックだったが、流暢だった。そもそもフンボルト大学がヨーロッパのノーベル賞学者が30人くらい出ている超スーパーハイクラスの大学だ。
というわけで、私は帰国してすぐに本書を読んでみた。そこで気が付いたことを書いていく。
『魔の山』の流れは以下の通り
- 油断した人間(ハンスは優秀な軍人予備人材)が地獄に落ちる
- その地獄で淡い恋に落ちる(相手はロシア人女性)
- ロシア人女性は退所する
- イタリア人の博学な詩人が施設を仕切る
- イエズス会(カトリック)の僧侶が施設に入所する
- イタリア人の詩人がフリーメイソンであることが発覚
- イエズス会僧侶とフリーメイソンが決闘
- ロシア人女性が大富豪と結婚して施設に戻ってくる
- ハンス・カストルプが死ぬ(第一次世界大戦が勃発)
本書は、表現や文体、内容面に関して言えば、決して10代のために書かれた書籍ではない。政治や世界史の話がわからないと、理解できないであろう表現も多い。ただ言えるのは、主人公が10代であり、若いまま亡くなるという物語であることだ。
ドイツの教養的な絵本で有名な『もじゃもじゃのペーター』という作品がある。ゲッティンゲン(ドイツ南方)の医師が子供のために書いた絵本で、いたずらっ子がひたすらひどい目に遭うというだけの絵本だ。この絵本では人が死んだり、餓死や、事故死が結構ダイレクトに暗示されるような表現が多い。初めて読んだ子供は泣くらしい。
おそらく、ただ単に少年・少女に「トラウマを抱かせる」目的があるというこの延長上に、教養作品としての『魔の山』があるのではないかと、私は思うようになった。つまり、子供にベストなトラウマを抱かせることは、欧州人にとって、一番の教育なのだろう。

欧州の国や人種のランク付が表現されている
また、本書の中では多様な国出身の入院患者が登場する。それらとハンス・カストルプの会話を読んでいくと、欧州の中でのドイツ人の立ち位置がわかる。
例えば、ドイツ人は、イタリア人をやや見下し、フランス人に嫉妬され、しかし、ロシア人になんとなくコンプレックスを持っている、というような感じだ。これは、実際の国の関係でもそうらしい。
働かないで威張っているイタリア人に対し、生産性と技術力でドイツは威嚇し、また、フランス人に関しては、フランス人の祖先がそもそもドイツ系であり、皮肉屋のフランス人はドイツ人には何故かあまり強く出ない、という関係が、確かに現実でもあるように思われる。
また、ロシアに対しては、第二次世界大戦でもナチスが負けたように、なんとなく、勝てないというイメージがドイツ人にあるようだ。また、ドイツの上流階級には、ロシア系の移民が少なくない。
そのような複雑な国別関係が、本書を読むと短期間でわかるようになる。おそらく、それらの背景を真面目に説明しようとすれば、歴史考証から何からかなり時間がかかるはずだ。
タブー視されている宗教とユダヤ人の深層を学ぶ
そして大きいのは、なんと言っても後半部で繰り広げらる、フリーメイソンとイエズス会の対立である。僧侶(イエズス会)と詩人(フリーメイソン)という、あくまで個人としてのキャラクター対立だが、そこで語られる会話は、この両者が、ヨーロッパで様々な争いを引き起こしてきたことを伺わせる。また、フリーメイソンはイタリア人という設定であるが、考え方や立ち振る舞いは、実質的にユダヤ人的だとも思える。
以上のことから、表現は教養的ではないが、そこに込められている内容面で、ドイツ人あるいはヨーロッパ人が、できるだけ早い時期に知っておいてもらいたい外交基本情報を、ややトラウマ的なスペクタクルの中に込めたのが『魔の山』ではないのか? というのが私の見方である。同時に、これを読むことで日本人は、ヨーロッパがどんな場所なのかもわかる。
以上である。もし参考になったら、幸いです。では〜