著者について
堀越 謙三(ほりこし けんぞう、1945年 – )
日本の映画プロデューサー。映画製作配給興行会社ユーロスペース代表。東京藝術大学名誉教授。開志専門職大学 アニメ・マンガ学部教授(2021年 – )。レオス・カラックス監督とのコラボレーションで知られている。
プロデュース・製作作品
- 山田勇男「アンモナイトのささやきを聞いた」1992年カンヌ映画祭批評家週間
- 勅使川原三郎「T-City」(短編/愛知芸術文化センター委嘱製作)
- バフティャル・フドイナザーロフ「コシュ・バ・コシュ」1993年ヴェネチア映画祭銀獅子賞
- 石井聰互「エンジェル・ダスト」1994年モントリオール、トロント、トリノ映画祭
- ワェイン・ワン「スモーク」1995年ベルリン映画祭銀熊賞・国際批評家連盟賞・観客賞
- ダニエル・シュミット「大野一雄」(短編/愛知芸術文化センター委嘱製作)
- ダニエル・シュミット「書かれた顔」1995年ロカルノ映画祭オープニング上映
- ジャン・ピエール・リモザン「Tokyo Eyes」1997年カンヌ映画祭ある視点部門
- ケネス・ラブ「フランク・ロイド・ライトと日本の美術」日本経済団体連合会会長賞
- レオス・カラックス「ポーラX」1998年カンヌ映画祭コンペティション部門
- フランソワ・オゾン「クリミナル・ラヴァーズ」1998年ヴェネチア映画祭
- バフティャル・フドイナザーロフ「ルナ・パパ」1999年東京国際映画祭芸術貢献賞
- 黒沢清「大いなる幻影」1999年ヴェネチア映画祭
- 塩田明彦「どこまでもいこう」1999年度文化庁優秀映画大賞
- フランソワ・オゾン「焼け石に水」2000年ベルリン映画祭コンペティション部門
- 佐藤真「SELF and OTHERS」2000年
- 松岡錠司「アカシアの道」2000年東京国際映画祭
- フランソワ・オゾン「まぼろし」2001年トロント映画祭
- アモス・コレーグ「ブリジット」2001年ベルリン映画祭コンペティション部門
- DVシネマ「映画番長シリーズ」2001年 長編11作品(監督=瀬々敬久、高橋洋、清水崇など)
- 青山真治「秋聲旅日記」2003年 中編/金沢市委嘱製作)
- 松浦徹「ギミー・ヘブン」2005年モントリオール映画祭
- 青山真治「AA/音楽批評家:間章」2005年
- アッバス・キアロスタミ「Like Someone in Love」
2012年カンヌ映画祭コンペティション部門 - パスカル=A・ヴァンサン「今敏─夢みる人」2021年アヌシー国際アニメーション映画祭(予定)
- レオス・カラックス「アネット」2021年カンヌ映画祭コンペティション部門監督賞受賞
※太字は堀越氏の代表作だといわれているもの(ブログ主判断)
目次
- まえがき
- 第1章 敗戦の年に生まれて
- 第2章 つらい記憶しかない内ゲバと闘争の学生時代
- 第3章 ドイツ留学時代に欧日協会を友人と立ち上げる
- 第4章 一九七二年、帰国してユーロスペースを設立する
- 第5章 新しい監督、新しい批評も―
- 第6章 ニューヨーク・インディーズの衝撃、そして『スモーク』へ
- 第7章 一生忘れられない『汚れた血』との出会い
- 第8章 ユーロスペース史上最高のヒット作『ゆきゆきて、神軍』
- 第9章 アッバス・キアロスタミとの出会い
- 第10章 アキ・カウリスマキと「わさび物語」
- 第11章 サミュエル・フラー映画祭の大成功、そして李香蘭、ツァイ・ミンリャン
- 第12章 映画製作事始め『アンモナイトのささやきを聞いた』
- 第13章 ドキュメンタリー『書かれた顔』の現場
- 第14章 セールスカンパニと北野武映画
- 第15章 映画美学校を設立する
- 第16章 映画美学校での映画製作
- 第17章 ミニシアターの行方
- 第18章 東京藝大大学院映像研究科を立ち上げる
- 第19章 『ライク・サムワン・イン・ラブ』の顚末
- 第20章 レオス・カラックスの『ポーラX』から『ホーリー・モーターズ』
- 第21章 フランス映画社の倒産とシネマライズ閉館、ミニシアターブームの終焉
- 第22章 アッバス・キアロスタミ追悼
- 第23章 吉武美知子を追悼する
- 第24章 東京藝大大学院映像研究科と映画美学校の現在
- 第25章 映画館主より、席亭と呼ばれたい
- 第26章 カラックスの集大成『アネット』をめぐって
- あとがき
- ユーロスペース公開・配給作品全リスト
ブログ主に勝手なまとめ
私が直で師事した日本インディペンデント史上最大のレジェンド
私は、この堀越謙三氏に藝大で直接師事した最後の世代に属する。なので、本書に書かれていることは、とても馴染み深かった。
書かれていることは、本人からも直接聞いているし、彼が東京藝術大学大学院の映画専攻で真に伝えたかったことだろう。これを読むことでおそらく彼が藝大にいた2005〜2013年くらいまでの授業を総まとめすることができる内容である。
堀越謙三氏の思い出:入学式当時の恐怖のホワイトボード授業
堀越「君たちが入ったのは、藝大じゃ無い。ただの専門学校だ」
本書を読んで私は、堀越氏の入学式の特別授業を思い出した。彼は、おそらく毎年、同じような授業を入学式当日に行なっていたはずだ。それについて、片道にややそれるが語っておきたい。
堀越謙三の教育方針
紅生姜市場の半分の映画産業。借金を背負い、生活保護を受け続ける覚悟はあるか?
入学式当日、堀越氏は一連の藝大の入学イベント(上野)でキラキラした体験をした生徒を、片道1時間半の無理やり横浜の奥地(馬車道)に呼びつけて、16:00〜深夜未明まで怒涛のホワイトボード授業を行った。そこでゴールデンウィーク実習という超過酷な実習の班ぎめがされた。
当時の芸大生たちは、そこで組まれた日程のせいで、本来大学生活を一息入れるために訪れるゴールデンウィークを、地獄の徹夜の一週間にする伝統があった。
ファイナンスとしての映画業界をきちんと教える
話を入学式の堀越氏のレクチャーに戻す。
芸大のほぼ全ての学科が、次の日からの授業だったのにも関わらず、彼はそれを完全に無視していた。そこで彼の口から語られたのは以下のことだった。
- 映画産業の市場規模は、紅しょうが市場(5,000億円)の半分に満たない2,000億円前後
- 2,000億から一人当たりの年収を算出すると、40万円である
- 黒○清はカンヌで賞を取った後も、生活保護を貰い続けた(手続きは堀越氏がやったらしい)
- 現代の日本映画のほぼ9割は、制作費すら回収できずに借金まみれ
- 自分は藝大生だと周囲に言いふらすな。上野(本校)からはクソ専門学生だと思われている
ここに、彼が映画業界で活躍する人材を輩出するという覚悟が透けて見える。
堀越謙三氏が一番長く藝大の校舎にいた。最も教育熱心で学生の名前も覚えた
堀越氏の授業は、とにかく、スラングや隠語が多く、キチガイとかクソ、死んだほうがいいなどという言葉を乱発するもので、今ではありえない暴露的な内容だったと記憶している。
彼が週に1〜2回程度行う、自身の講座でも、金銭的にもあからさまな数字が語られ、映画業界の厳しさそのもので、その分、若い学生たちにとりわけ驚愕されていた。
彼が率いるプロデューサーコースは、しょっちゅう定員割れを起こし、そのクセ、藝大のカリキュラムの中で一番ハードだと言われている録音専攻の次に、過酷なカリキュラムだった。
しかも場合によっては、手持ちの貯金をすべて映画に使うはめになる生徒も少なくなく、また人によっては膨大な借金すら背負うことある、とんでもないコースだった。
つまり、冷静に産業として映画業界を見ていない、お花畑の学生は、彼の下でもがき苦しむことになる。理想主義に突っ走ることで、地獄に勝手に落ちていくことになる。これは、実際の堀越氏の教育方針とは無関係だったが、藝大に入学した多くのプロデューサー志望者たちがそうなった。
ただ、教育熱心であり、同窓会で暫くぶりにあっても生徒の顔と名前を覚えているなど、教師としての存在感と求心力は、一番あったのを覚えている。
私は、在学時、どの教授陣よりも堀越氏をリスペクトしていた。
ということで、片道に外れたが、ここからは本書の内容を語っていく。
金利と融資:堀越謙三をインディペンデント映画の中心人物にした要素
本書に書かれている重要なことベスト3
第三位 藝大創設時の資金集めと教授布陣の構成方法
東京芸大の映画・映像関係学部は、実は1945年ごろ、1960年代、1980年代ごろなど、何度も設置の試みがされてきたというふうに書かれている。だが、それらは全てうまくいかなかった。
その後、2000年代に堀越氏の元にその話が回ってきたのだという。その理由を堀越氏は、以下の点で自分にお鉢が回ってきたと推測している。
- 映画美学校を創設し、経営的に軌道に乗せた
- ユーロスペースのオーナーであった
- 国際的にプロデューサーになっていた
- 政府や大使館関係の連携が難なくできる
特に、映画美学校の運営に秘訣として、テナントビルの運用や銀行の融資等の具体的な話が盛り込まれ、儲かりにくい学校運営をどうやって黒字化させるのかなどが、堀越氏の口から語られている。
理屈ではないドタバタしながらの、運営に彼は必ず自身の立ち位置のメリットを見出して、交渉ごとを有利に進めていく。誰もやりたがらない“カネ”の問題に強みを持つ記述はとても読み応えがあった。
第二位 北野武が教授になった経緯
引き続き藝大ネタで申し訳ないが、本書にはなぜ、年に数回も来ない北野武が、東京藝術大学教授を名乗り、就任できたのかまで書かれている。
藝大学長の平山郁夫(日本画家)が希望した北野武の人事
北野武就任のそもそもの発端は、堀越謙三ではない。
それは、藝大の人事枠(学科創設に必要な教授枠をこじ開ける)を手がけた、当時の藝大学長だった平山郁夫氏の希望だった。平山郁夫氏は日本画家としてバブル期には最高値の売買価格40億円を叩き出し、しかも教育者としては村上隆の博士課程の主査でもあった人物である。

この平山郁夫氏が「北野武を藝大のシンボルにできれば、文科省の認可も学生の公募もうまくいく」と言ったのが発端だと本書には書かれている。
堀越謙三が藝大ないの権威的なパワーゲームを制し、北野武藝大教授が誕生する
あまり詳しくは書けないが、この後、堀越謙三氏は、北野武を藝大教授にするためにかなりの労力を費やし、しかも藝大内でのパワーゲームを強いられることになる。
この点の読み応えが半端なく、これが同時に世界的なプロデューサーとしての手腕とも直リンクしているのが、読むとわかる。権威に金銭が絡む状況での膨大なストレスを、堀越氏は乗り切れる独特のポジティブシンキングがあり、それがもしかすると本書の最大の読みどころかもしれない。
第1位 キアロスタミのプロデュース裏話
最晩年に決裂してしまったキアロスタミとの関係
本書は元々は、堀越氏のいわゆる「終活本」としてスタートされている。
そのため、彼が一番語りかったのは、どのように世界的な映画作家のプロデューサーになり、そして彼らとの関係が、どのようになっていたのか、という内容だ。
つまりは、本書は基本的に、堀越氏の元でプロデューサー修行をした後進のために書かれた本である。
その中で、不幸な晩年を送ったキアロスタミとの逸話は、彼が一番語りたかった内容だったのではないかと思う。キアロスタミと、堀越謙三は『ライク・サムワン・イン・ラブ』制作ののちに決別し、同作が選ばれたカンヌ国際映画祭のコンペティション上映でも言葉を交わさなかった。
キアロスタミとの決別の理由は、女性通訳者の存在
上記の動画にも収録されているが、キアロスタミと堀越氏の決別の原因になったのは、長年キアロスタミの通訳としてエスコートしてきたシューレという通訳者だった。
金銭面でもストレス面でも、堀越氏はどんな仕打ちをキアロスタミから受けても、受け流すタフさを持っていたが、彼の弱点はこういう人情的な面だったというのが、とても意外だった。
キアロスタミの通訳者への対応が悪い。そこが堀越氏が許せなかったということだ。
これはむしろ、周囲との関係性で思わぬトラブルを起こしがちな、映画監督を目指す人間が読んでおくべき内容ではないかと思う。かなり役に立つ堀越氏の心情が綴られている。
以上が、私が本書を読んだ感想である。
誰もが読んで楽しい本ではないが、もし興味を持った人がいれば読んで欲しいと思う。