宿題を手伝って=学校でのイジメを助けて かもしれない
例えば、妻に「この服似合っている?」と聞かれたとしよう。
その答えは、「似合っている」「似合っていない」という二元論的なものではなく、結婚してからだいぶ経っているけど、「あなたはまだ私を愛している?」なのかもしれない。
また、子供に「宿題を手伝って」と言われたとき、はどうだろうか?
実は「学校でいじめにあっていて、助けて欲しい」なのかもしれない。
そこにあるコップを取ってとか、
掃除をしておいてとかなら、
具体性と即効性を伴う類の質問なら、この複雑性はない。
だが、世にあるお願いの中には、曖昧なニュアンスでは到底言い表せないような、含みを持っていることが少なくない。むしろ、かなりのものが、そうだと疑ってもいい。
そしてそれらは、一言などのとても短い形で表される。
だが、求められる答えは難しい。相手が思い悩んでいればいるほど、彼らの要望が具体的あることの方が、少ないのだ。これは人間が、救済を求める時に共通している。

著者のエドガー・H・シャインは、「支援学」というものを生み出したアメリカ・マサチューセッツ工科大学の元教授である。
「支援学」は、日本ではプロセス・コンサルティングという。カウンセリングやコンサルティングを業務を行なっている、一部の人たちの間で、知られている。
それらの業務を行う人々の間で共通認識と言っていいのは、ゴールという日常生活ではあまりにも見えにくい目的と、また、過程を見誤ると、そこにと取りつけなくなると言う、道筋の重要さである。
そんな中で、支援学は誕生した。支援学はつまり、プロセスコンサルティングという名前の通り、直接的な補助するのではなく、過程を重視にする学問のである。過程を重視することでしか、他人がその人の悩みの本質を知ることができない、それが本質としてある学問である。
言葉通り返答・対応すると、なぜ人間関係がギクシャクする?
「悩みがあるの」「助けて欲しい」といった依頼をされると、そこにある人間関係は通常の人間関係とは全く異なる状態になる。
たとえ親と子供、同僚、同級生といった親密な関係であっても、援助を要求すると「クライアント」「支援者」という特殊な関係になり、優位性が大きく変わるのである。
ここに、人間関係の大きなリスクが発生する。
「支援学」は、この状態を学問的にアプローチしている。
人間という複雑性をコントロールしながら、不安定性と繊細さを逸脱せずに、いかにしてその人の悩みとの距離を縮めていくか。哲学や心理学、社会学などの多くの学問が、これまでやりたくてもできなかったことを、実現しようとしている学問である。
支援学のプロでさえ、頻繁に間違った行動をする
本書では、著者が20年に渡って介護した妻との関係や、大学・企業との実体験をもとにさまざまな「支援学」のケーススタディが語られており、文章としてはかなり平易で読みやすい。
ただ、読み進むにつれ本書は、一般向けに書かれた書籍であり「支援学」には専門書籍が多くあって、本腰を入れるには、むしろそちらを読む必要があるというのがわかっていく。
一冊では足りないと著者は促す。
だが、私はこの本一冊で多くが埋まるひとは少なくないと思う。
知っておきたいのは「支援学」の複雑性である。ときによって「支援」は、尋常ではない困難さ・難解さを伴って、人を奈落の底に突き落とす可能性がある。
その道のプロであっても気を抜いてはいけない。
プロがプロたり得ないケースが、往々にしてある。
本書には、著者の古くからの友人が登場する。
同じ、支援学のグランドマスターである。
しかし、彼は著者に助けを求めてくるのである。しかもどん底の気分で。そんな、同じ「支援学」を長年構築してきたコンサルタントの失敗談とそれへの著者の支援方法について詳細な記録が読める。このケースは、かなり稀なものかもしれない。
だがこの「最悪のケース」も本書を読んでおけば、大きな間違いに気づく土台はできる。
読むべき人:相談内容に、二次思考を求められる人
本書を読むべき人はどのような人か。
それは、人とのやり取りで「二次思考(言葉通りの返答ではダメな場合がある)」を伴う職種の人である。具体的にどういう仕事かと言うと、それはごみ収集とか、清掃とか、レンガ職人である。
だが、それらの職業であっても、サービス業的な、人間の仲介性が多いものは、どうしても「2時思考」が求めれられる。そして、オートメーション化が進む現代において、そんな仕事はどんどん減ってきている。つまり、はっきり言って、ほぼ全ての職業と言っていのかもしれない。
ちょっと、物足りないかもしれないが、そういう意味で、相手を限定しない有効な書である。
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