著者紹介

大城立裕(1925〜2020):
沖縄県中城村出身。1943年、上海の東亜同文書院大学に入学し、1946年、敗戦により中退。高校教師を経て琉球政府、引き続き沖縄県庁の職員となり、主に経済・歴史編集畑を歩む。1967年、『カクテル・パーティー』で芥川賞を受賞し、沖縄初の芥川賞作家。小説、戯曲やエッセーなど多くの作品を発表した。1983年から1986年まで沖縄県立博物館長。2020年10月27日、死去。95歳没。
本書を読むべき人、読んでメリットのある人
- 海外に出張・移住する人(その可能性がある人)
- 留学生や労働者などを海外から招き入れる人
- 国際結婚などで子供が生まれる可能性がある人
- 帰国子女や帰国子女と関係のある人
小説でしか表現できない『会話』の誕生
通常、会話というのは文章としてのものよりも、実際の人間が演じるような映画や演劇といったものの方が情報量が多いという印象がある。何よりも時間が継続しているし、感情や深い意味などは、しゃべる人間の表情、話すスピード、身振り手振りが重要な情報源となると考えられるからだ。
しかしながら、本書はそれを超えるものを提示している。
本書は、文章表現における会話を、果たしてどこまで挑戦的に発展することができるか?ということに挑んだ作品なのだ。
芥川賞とは「日本語の前衛性」を見つける賞である
そもそも、芥川賞というものはなんであるか。
直木賞と同じ時期に発表されるが、人々の印象は全く違う。
規定の上では、直木賞=単行本化された長編、芥川賞=単行本化されていない文芸誌に発表された中編から長編作品という基準だが、それと世間のイメージはあまりつながりがない。
直木賞というのはどこか大衆的な、親しみをもてそうなイメージがあるのに対し、芥川賞というものには、ストイックなイメージが付き纏っている。それが何かといえば「日本語の前衛性を担保している」という一言に尽きる。芥川賞は日本語の門番的な賞なのだ。
内容は、米兵に娘をレイプされた琉球人が、アメリカ人と中国人と日本人の政治的な圧力によって、報復を潰されかけるというもの
本書が書かれた1967年は、沖縄返還論議が世相的に盛り上がった時期である。
当時の日本のムードは、高度成長期の中で、GDP上は欧米列強を凌ぎ、独立した先進国意識を持つべきという感覚が民衆の中に高まっていた。そんな中で、依然として米国の支配を印象付けるものが日本の中には数多くあり、その最たるものが、沖縄の存在であった。
1970年の沖縄返還前までは、パスポートがなければ日本人は沖縄に行けなかったのだ。
そんな中で、この小説は生まれた。
著者の大城立裕は、沖縄県庁の歴史科に勤める沖縄史の専門家でもある。
だが、彼は本作で「沖縄の歴史」をほぼ地の文で書かなかった。
人間は外国人と話すとき「歴史によるパワーバランスを隠せない」
本書は、日本人、中国人、アメリカ人、琉球人が親睦を深めるカクテルパーティー中に起きた「軍人の子供の誘拐事件」とその後に起きた「琉球人女性のレイプ事件」で構成されている。
前半のカクテルパーティパートでは、支配と被支配の歴史を持つ日本人、中国人、アメリカ人、琉球人によるそれぞれの国を背景としたパワーバランスが微妙に散りばめられた危険な会話の数々で魅了する。微細な駆け引きを楽しむパートだ。
しかし、後半に発生したレイプ事件によって「そのカクテルパーティの会話」が、いかに欺瞞でゴミみたいなものかを表現することになる。つまり、人間の生活とは無縁だったのだ。
会話の背後にある文化背景は、演技では表現できない
この小説が芥川賞を取ったのは、決して当時のタイムリーさからではないだろう。
間違いなく小説「カクテルパーティ」は日本語の前衛性を担保し、日本語を守ったのである。それは従来の芥川賞の歴史を引き継ぐもので、沖縄とは関係ない。
後半では、レイプされた娘を持つ主人公の自身を『お前』と表現し続け、様相をガラッと変える。読者は、物語を読んでいるのに自分があたかも呼ばれているような錯覚に落ちいる。
この他者に語りかける非常に強い言葉である「お前」は、窮地に立たされた全世界の全ての人間を指しているかのうように思える。
こういうことが表現できてしまうのは、日本語の主語の、ある意味強烈な曖昧性があるからである。このように会話の凄さだけはなく、「口語主語」表現にもぜひ注目してもらいたい。
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