
みなさんは、国際映画祭(International filmfestival)というものについて、どうお考えでしょうか?よく聞く言葉ですが、単なる外国の映画祭ということではなく、その国以外の作家にも開かれているいうスタンスで開催される映画祭です。真っ先に浮かぶのはカンヌとかベルリンで、その辺はよくわかる人が多いでしょう。そういう一見オープンで開放的な映画祭のことです。
実は、そういう国際映画祭における映画作品というのはガチガチの権威主義の側面を持ちます。
それを知っておくことは、見るときにも役に立ちますし、内容や公開のタイミング、キャスト、制作国、スポンサーなどでなるほどと思うことも増えます。また、あなたが映画を撮りたいというときや、もしくは映画を上映する映画館や放送での仕事に従事するときにも大いに役に立ちます。
今日は、そんな国際映画祭事情について、全3回の1回目として基本部分を書いていきたいと思います。
関連記事:国際映画祭の応募・上映・評価について(2)負けない国際映画祭応募対策・無名監督にできること
- 映画は、段違いに映画祭の権威性が強く、脆い
- 映画は「作家性」が弱い。故に映画祭に頼る部分が大きい
- 本題:国際映画祭はフランスによって厳密なランク付けがされている
- 例外:アメリカ圏の映画祭はアメリカでの権威性で独立した権威順がある
- ヴェネチア国際映画祭はアメリカにほぼ買収されている
- それでもヨーロッパの映画祭は、アメリカよりも崇高とみなされる
- 日本映画は上海国際映画祭や釜山国際映画祭でかかりやすい、などと言った地政学、国際情勢的、民族的な権威性もある
- 国際競争力が低くなると、他国の映画祭の出品数も減る
- ディストリビューターの手腕で上位の映画祭にねじ込まれることも
- 映画祭が育てた作家は、ずっとその映画祭でかかり続ける
- フランス出資作品はカンヌでかかりやすい(資金問題)
- まとめ
映画は、段違いに映画祭の権威性が強く、脆い
ズバリ、結論をいうと、映画は「人」より上に「映画祭での評価」があります。
他の芸術はその分野の「最高賞」にあたるものを、生涯に渡って何度も受賞する、ということがありません。例えば「芥川賞」、建築の「プリツカー賞」、文学の「ノーベル文学賞」を2度以上受賞する作家はいません。一度受賞すればその効果はある程度(もしくは生涯)維持されます。しかし、この考えは、映画産業には無いのです。過去にカンヌでパルムドール(最高賞)を受賞しても、また次の作品がカンヌで上映されなければ、低い評価を得てしまうのが常です。
映画は「作家性」が弱い。故に映画祭に頼る部分が大きい
これは、映画がイメージ部分で撮影・出演者などの依存の色が強く、基本コンセプトの構築において個人の筆跡のようなものが残りにくいところから来ています。例えば、かの有名な是枝裕和監督のブランド感とアニメ界の巨匠である宮崎駿監督のブランドの強さは全然後者の方が強力です。
宮崎駿監督の映画はポスター1枚でわかり、場合によっては名前が入っていなくてもわかりますが、是枝監督の映画は「是枝裕和」の名前がなければ、ポスターが誰のものかわかりません。
つまり、映画(実写映画)は説明・解説が無いと力を失うことが多いのです。また、個人の指向性が画面にくっきりと映ることはほとんどないと言っていいでしょう。
よって個人のブランドを構築しにくく、映画祭の権威性の依存度が高まります。
※近年、アニメは上位の映画祭で公式コンペ入りしないです(カンヌ・ベルリンでは、アニメは映画では無いという判断がされつつあるという前提)。
本題:国際映画祭はフランスによって厳密なランク付けがされている
ここから本題です。
まず、世界の映画祭はフランスの国際映画製作者連盟(FIAPF)を中心として、厳密に権威のランク付けが決まっています。これはもうガチガチです。細かな国別や分野別(長編・短編・ドキュメンタリー)の話はここでは省きますが、この権威性はほぼ絶対的に機能します。
ほぼ不動の国別ランキング(国力差逆転はたまにある)。※10位以下は要確認(汗)
1位 カンヌ国際映画祭(フランス)
2位 ベルリン国際映画祭(ドイツ)
3位 ヴェネチア国際映画祭(イタリア)
4位 ロカルノ国際映画祭(スイス)
5位 サン・セバスティアン国際映画祭(スペイン)
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8位 ロッテルダム国際映画祭(オランダ)
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10位 モスクワ国際映画祭(ロシア)
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13位 上海国際映画祭(中国)
14位 ワルシャワ国際映画祭(ポーランド)
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23位 釜山国際映画祭(韓国)
24位 タリン・ブラックナイツ映画祭(リトアニア)
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30位 東京国際映画祭(日本)
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32位 香港国際国際映画祭(香港)
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40位 シンガポール国際映画祭(シンガポール)
と言った感じで、この下に60年以上クラスの映画祭、エディンバラ国際映画祭、マンハイム・ハイデルベルク国際映画祭などが続いて、継続年数が低くなるごとにランクが落ちていく、、、みたいな感じです。
で、この権威性がどう機能するかというと、低いランクの映画祭でかかった作品は、上のランクの映画祭でほぼかかりません。また上の映画祭でかかった作品は、下の映画祭でどんどんかかります。(これが俗にいうプレミア問題:はじめにかかる映画祭に異常にこだわる)
この辺が、結構知られていない恐ろしい事実です(これにセールスも付随する感じ)
※ただし新人発掘部門を小さな映画祭と提携しているケースは最近あります。例で言うと、日本のPFF(ぴあフィルムフェスティバル)は、ベルリン国際映画祭との提携を組んでいます。また、SKIPシティDシネマ国際映画祭は、東京国際映画祭と新人枠の提携をしています。
例外:アメリカ圏の映画祭はアメリカでの権威性で独立した権威順がある
ただし、この映画祭の階層にも例外はあります。
それはアメリカの映画祭です。アメリカは、カンヌ・ベルリンと言った上位ブランドにアカデミー賞が肩を並べていたり、歴史の古いシカゴ国際映画祭、絶大な権威性を持つトロント国際映画祭といった、いわゆるヨーロッパのヒエラルキーを破壊するような映画祭を持っています。
ヴェネチア国際映画祭はアメリカにほぼ買収されている
また、形式上第三位のヴェネチア国際映画祭は、2000年代の経営難になった時期に、大量のアメリカ資本が入ったことで、ほぼアメリカの映画祭という枠組みに入っています。
今でもある程度の国際色は維持していますが、公式コンペにアメリカの作品が入りやすいのはもちろんのこと、グランプリもアメリカの作品が増えています。ヨーロッパの権威と喧嘩しているネットフィリックスの作品やアメコミ・CG大作が受賞するのも、必ずヴェネチア映画祭です。今やアメリカの新規事業の起点となっています。
それでもヨーロッパの映画祭は、アメリカよりも崇高とみなされる
しかしそれでも、ケースによってアメリカで高い評価の作品がヨーロッパで全然評価されない、低い位置に置かれる場合もあります。それはもう、一言で言うと「嫌味なフランス・ドイツ」の強さです。特にこれは政治映画、民族紛争であったり、反資本主義、民族伝統性を裏付ける作品に起きがちです。
日本映画は上海国際映画祭や釜山国際映画祭でかかりやすい、などと言った地政学、国際情勢的、民族的な権威性もある
これはどうしても映画祭=映画マーケットという側面や単純なその国家間の興味意識から、権威性の変化が起きます。逆に言えば、日本と韓国の関係が悪い時は、釜山国際よりもロッテルダムの方が日本映画の本数が多いということもあり得ます。
国際競争力が低くなると、他国の映画祭の出品数も減る
いくらいい作品を作ってもこのようなことで上映作品が減ることも多々あります。
これはもう、国の認知度や興味というものに比例してしまうのです。
ディストリビューターの手腕で上位の映画祭にねじ込まれることも

ディストリビューター(作品を紹介する人・会社)の力が絶大なのもケースも見られます。以前は北野武や河瀬直美を発掘したマルコ・ミュラーといったパワー人材がその新作がかかる映画祭の決め手になることもありました。主にフランス・ドイツ・イタリア圏のアカデミズム系の人材が多かったと思います。
例えばカンヌ国際映画祭などは公募枠に1ヶ月くらいの短期間で8000ほどの大量の作品が集まってしまったりするので、それを見切れないということも発生します。その時はもう、目利きや人脈通の力を借りて、特定の時間で権威性を高める作品選びをする必要が出てきます。
映画は120分前後という長さがネックとなって、こういうインサイダー取引がなくならないのです。
映画祭が育てた作家は、ずっとその映画祭でかかり続ける
ベルリン国際映画祭が行っているタレントキャンパス出身の作家が、おうおうにしてベルリン国際映画祭直通切符を持ち続けたり、カンヌ国際映画祭の学生部門であるシネフォンダシオン出身の映画監督がカンヌの常連になるということも多いです。
映画祭は、自分が育てた作家を大事にし続ける傾向がどうしてもあります。
フランス出資作品はカンヌでかかりやすい(資金問題)
また、スポンサーの圧力も映画祭の権威に猛威を奮います。代表的なのはフランスのケーブルテレビmk2といった団体です(深田晃司監督や濱口竜介監督、黒沢清監督のスポンサーでお馴染み)。映画は全体的に、出資を受けた国の映画祭でのプレミア上映を半ば約束されます。
これも暗黙のルールです。
まとめ
みなさん、ここまで読むとお気づきかもしれませんが、そうです。
映画は実は公正明大な実力レースを行っていません。
もしかしたら、みなさんの中で映画祭=作品のクオリティだと思って、見る・見ないの判別に使っていた人もいるかもしれません。
まあ、全くそうとも言い切れない時も確かにありますが、やはり映画はその視聴の長さがネックとなり、この競争の歪みが大きく出てしまっている芸術です。
その点、アメリカの作品は興行収入や批評家点数、再生数といった客観数字で選ばれることが多いです。でもそうなると時代的なタイミングや、予備知識の不要な作品のが選ばれやすいといった、反アカデミズム的な側面も強く出てしまうのも事実です。
いかがだったでしょうか。
みなさん、映画がどんな競争を行っているのか、少しでもわかっていただけたでしょうか?
お役にたっていることを願うばかりです。
では、次回は映画の応募について、少し踏み込んだお話をしていきたいと思います。
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