はじめに
私がなぜ、このような記事を書こうと思ったのか?
それは『ドライブ・マイカー』(原作:村上春樹)でカンヌ国際映画祭で脚本賞などを受賞して、評価が高まりつつある、藝大の先輩である濱口竜介を取り巻く評価を見たからだ。
私は多くのメディアが、濱口竜介を取り上げれば取り上げるほど、心配になる。彼の受賞には、いろんな意味があるからだ。実力とは関係ないものも実は多い。
なので本来なら、映画祭の受賞というものが、どのような側面を持っているか?つまり、その経済的な影響力や、映像業界・映画産業の権威性をどのように作用するかを伝えたい。
しかしながら、私のような末梢のものがそんなことを声高に叫んでも仕方がないというのがある。なので、私は私でできることをしながら、徐々に映画祭の持つさまざまな側面に触れて、最後には多くの人が冷静な判断ができるようにしたいと思った。それが今回の記事となる。
90年代にアカデミー賞は、カンヌやベルリンよりも優れた仕組みを作る
以前の記事(国際映画祭の応募・上映・評価について(1)権威性と選定基準)でも述べたが、三大映画祭のヴェネチア国際映画祭は実質、アメリカの映画祭でアカデミー賞の子分である。
よって、アカデミー賞と比較する時は、実質機能している欧州映画祭のカンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭の二つを用いる。
アカデミー賞が、カンヌ・ベルリンよりも優れている点とは、ズバリ、社会的な影響力だ。
カンヌのパルムドールもベルリンのグランプリも、アカデミー賞作品よりほぼ100%興行成績が少ない。カンヌもベルリンの受賞作も、監督に特別なブランドがない限り、首都圏以外のシネコンでかかることはほとんどない。これはアメリカのおさえている興行網の威力である。
また、このような影響が配信やビデオかになった時にもたらす効果も無視できない。その効果とは、広告力と類似作品の増加への影響だ。
アカデミー賞の受賞作品は、その後の作品展開力が段違いに違う。
アメリカ映画の商業展開の速さの秘密
例えば、その続編やスタッフ、キャストが他の作品に出演・参加した時も強く、商業的に頒布される。これによって、単品でいくら優れた作品であっても、ベルリンやカンヌの映画は上映・配信リストの上位から消える。
この手法のそもそもでどころは、アメリカの政治戦略からきている。つまりこれらは映画のソフトパワー(ジョセフ・ナイ提唱)といえるもので、武器をもちいずにアメリカの影響力を世界中に確実に与えるのである。
私たちの多くは、アメリカの存在を本や資料、ニュース等を通してではなく、実は映画から得ており、それが日常生活を変える力を持っているのだ。
また、事前に有名キャストの出演が決まったSF作品やサスペンス作品に関しては、NASAやCIA、FBIのスポンサー協力、ロケ地協力、演技指導、時としてシナリオ添削なども入ることが最近、西森マリー氏の著書で明らかにされた。
関連記事:藝大卒の映画監督はどう読んだか? 資金集めの内幕から内容干渉まで『カバールの民衆「洗脳」装置としてのハリウッド映画の正体』西森マリー
こういうことはヨーロッパの映画祭にはできないし、起きない。
アメリカはまずはブロックバスター(スタローンやシュワちゃんたち)の映画で市場を切り開き、その後にアカデミー賞でその市場ルートを着実に定着していくという手法を90年代以降にとった。
これがアメリカの市場展開のスピード感をのちに生み出す。
アカデミー賞の怖さ:スタッフ労働組合協会賞であること→現地の関係者も巻き込む
一見、ヨーロッパの映画祭のもたらす権威性は、スタッフや俳優の評価に比重が高いように思えるが、ここは実はかなりぼんやりしたもので、具体的な賞はない。
だが、アカデミー賞は全ての部門が労働組合によって運用されている点にも注目しておきたい。
- 作品賞→全米プロデューサー協会(最高賞)
- 監督賞→全米監督協会(準グランプリに当たる)
- 男優賞・女優賞→全米俳優協会(いわゆる第三位・銅メダル)
このように全ての協会(組合)賞には、れっきとした序列がついており、以下にも全米撮影監督協会、全米編集者協会、全米録音協会などが、アカデミー最優秀撮影賞、最優秀編集賞、最優秀録音賞など、素人がどう見ても見分けられないハードコアなものとして、権威づけらていく。アカデミー賞衣装部門などに関しては、興味を持てないが、これで映画を見る女性が結構いる。
このような協会賞の構図が、実はカメラや編集・録音機材、衣装のメソッドやレンタルシステムなどどとして、産業と結びつき、世界的なスタッフを統率することにも繋がっている。
要するに、アカデミー賞の作品は世界各地の俳優、スタッフ、同業者も熱を入れやすい。
それに対して、ヨーロッパの映画祭は近年、焦ってスタッフ部門を作ったが、結局集客性を求める映画祭がほとんどのため、潰れて消えてなくなった。影響力もゼロである。
アカデミー賞の外への指向:マイノリティ・自虐ネタで急拡大
そしてここで本題に入っていく。
アメリカのアカデミー賞(特に主要三賞:作品賞、監督賞、男優賞&女優賞)の受賞作品は、上記の販売ルートや評価基軸の整備が進んだ1990年代後半から2000年代中盤にかけて、リベラル的な意味での社会影響を重要視する傾向が生まれた。
これによって、ヨーロッパ映画産業が未開発の中国、ロシア、インドネシアといった人口の多い地域のインテリ層にすぽっとハマるような作品作りを目指したのだ。そこから、いわゆるソフトパワー(政治的な影響力や機材、上映・配信素材の国際標準の支配)を拡大していこうとするイメージだ。
これは世界的な配信販売網やシネコンへの影響力を持っているから生まれた潮流である。90年代以降に誕生したと言っていい。そしてそれは配信によって、さらに強いものとなった。
では、その大きな転換期となったと私が感じた作品があるか? と聞かれたら、どんな作品を答えるのか? それはなんと言っても『アメリカン・ビューティー』(1999)と『ブロークバック・マウンテン』(2006)だろう。ここからはこの2作品について書いていく。
私は自信は、保守的な政治的立場だが、これらアメリカの90年代以降の映画販売ルートを開拓し、定着したのは紛れもなく民主党(リベラル)人脈である。このような動きを、業界全体でできるアメリカの凄さに注目すると共に、この2作品は内容にもその思想が表れている点に注目してほしい。
『アメリカン・ビュティー』作品情報
- 監督 サム・メンデス
- 脚本 アラン・ボール
- 製作 ブルース・コーエン
- ダン・ジンクス
- 出演者
- ケヴィン・スペイシー
- アネット・ベニング
- ソーラ・バーチ
- ウェス・ベントリー
- ミーナ・スヴァーリ
- ピーター・ギャラガー
- アリソン・ジャネイ
- クリス・クーパー
- 音楽 トーマス・ニューマン
- 撮影 コンラッド・L・ホール
あらすじ
おっさん(42)と娘の同級生の美女(18)との不倫からの衝撃の展開の物語
広告代理店に勤め、シカゴ郊外に住む42歳のレスター・バーナム。彼は一見幸せな家庭を築いているように見える。
しかし不動産業を営む妻のキャロラインは見栄っ張りで自分が成功することで頭がいっぱい。娘のジェーンは典型的なティーンエイジャーで、父親のことを嫌っている。レスター自身も中年の危機を感じていた。
そんなある日、レスターは娘のチアリーディングを見に行って、彼女の親友アンジェラに恋をしてしまう。そのときから、諦めきったレスターの周りに完成していた均衡は徐々に崩れ、彼の家族をめぐる人々の本音と真実が暴かれてゆく。
エリート白人の転落をコミカルに描く

本作はイギリス演劇界で既にスター若手演出家であったサム・メンデスによって監督された。つまり外国人監督で、保守派のアメリカ人が一番嫌いな旧支配者のイギリス人である。しかも権威的な英国演劇界の出身ということで、嫌味なものが全て揃っている。
属国や反米主義の国は「アメリカの恥」をエンタメ化した作品に限る
日本でのキャッチコピーでは「平凡な家族が転落する」という触れ込みで宣伝されたがこれは間違いである。当時、主人公のケヴィン・スペーシーのようにシカゴで広告代理店に勤務するのは、容易ではない。これは、白人のエリート層にギリギリ位置する家族の悲劇と見た方が自然だ。
それまでの、白人家族のトラブルを描いた映画は数多くあった。しかしそれらと本作は一線を隔てる。本作を見ることで、多くの非アメリカ人は、間違いなく、アメリカの白人の凋落ぶりや幸せ感の変容を目の当たりにすることになる。
本作以前は、アメリカの「恥」の部分を、アカデミー受賞作品(本作はグランプリに当たる作品賞を受賞)として流出することをしてこなかった。だが、この作品以降は、海外のインテリ層にことのほかこの手の作品が響くことがあらわになった。
本作以降、20年ほど立つ今まで、例えば去年の『ノマランド』といった作品のように、アメリカの白人の転落を描いた作品のエンタメ化が、継続している。これが示すのは何かというと、白人の転落ネタは、継続的に金儲けしやすいということだ。
ヨーロッパの映画などでアメリカの転落をテーマにした作品はよくあったが、自国のハリウッドで自家生産し始めた、というのが本作のポイントだと思う。また、自国の監督ではなく外からアメリカを見れるような、目上のイギリスの監督だったというのも本作の利点となっただろう。
『ブロークバック・マウンテン』作品情報
- 監督 アン・リー
- 脚本
- ラリー・マクマートリー
- ダイアナ・オサナ
- 原作 E・アニー・プルー
- 製作総指揮
- ラリー・マクマートリー
- 出演者
- ヒース・レジャー
- ジェイク・ジレンホール(ジェイク・ギレンホール)
- 音楽 グスターボ・サンタオラヤ
- 撮影 ロドリゴ・プリエト
あらすじ
二人の“カウボーイ”という「男らしさを拒否できない」あるゲイの生涯を描く。
1963年夏、ワイオミング州のブロークバック・マウンテンの山中で羊の放牧を行う季節労働者として、牧場手伝いのイニスとロデオ乗りのジャックが雇われた。2人は過酷な労働を通して友情を深めていったが、ある夜、ジャックがイニスに誘いをかけ、2人は一線を越えてしまう。
男権のシンボル“カウボーイ”を通して、ゲイの存在を肯定する

本作もアン・リーという外国人監督によって監督された。
しかしながら、プロデューサーと脚本は、ラリー・マクマートリーで、間違いなく本作はラリーの総指揮の中で作られている。もしかしたら、アン・リーは単なる雇われレベルかもしれない。
この例からも見てわかる通り、2010年代近辺までにハリウッドは内容に“アメリカの恥”的なタブー要素が強くある作品に関しては、結構な確率で外国人監督や非白人監督を起用するスタイルを確立しつつあった。
映画製作では、どうしても監督という存在が矢面に立たされるのだ。だが、アメリカの映画はあくまでプロデューサーシステムであり、俳優のスターシステムであるため、この二つのシステムで資金が動き、企画が動く。批判を交わして作品を作るためには、もってこいのシステムだ。だから、ハリウッド映画は刺激的な作品が作れる。
流石に、カウボーイのゲイというネタのせいか、本作はアカデミー賞のグランプリである作品賞は受賞できなかった。だが、主要部門の多くを獲得した。
アカデミー賞は、協会賞である。審査員賞ではない。これは、基本的には人種間対立を起こさないようにする民主的なシステムとしての逃げ道ともいえる。とはいえ、俳優やカメラマンなど美的部門では既にゲイの割合が少なくなかったのが、多くの部門で賞を受賞できたことに表れている。
この作品も同様に『実はゲイだった』系の作品を、その後多く生み出す潮流を作っていった。また、現在も続くが、ゲイではないと思われてきた有名人が、実はゲイであると告白するのが、この頃から社会の情勢としてしやすくなった。そういう情勢は、えてして“正しさ”ではなく、こういうブロックバスター作品による生活圏レベルの変容に引きづられて、影響を受ける。
また、本作のヒース・レジャーとジェイク・ジレンホールはゲイではない。そんな非ゲイな二人のリアルな演技も、ゲイではない人間がゲイをイメージしやすくした可能性も高い。
ハリウッドが外国人監督を上手く使い、道を切り開く時

アメリカは、アカデミー賞やピュリッツアー賞も含め、当初は受賞に米国籍を義務化していた。だが後にそれを撤廃したり、回避ルール(アカデミー賞の場合はプロデューサーが米国籍であれば良い)を設けることで、時代を変えるような作品を生み出せる道を模索した。
アカデミー賞は1987年の『ラストエンペラー』(監督のベルナルド・ベルトルッチはイタリア国籍)を皮切りに、1990年代以降、外国人監督の起用作品の評価を増やしていく。
おそらくその裏には、アメリカの白人監督を取り巻く表現の自由が、実はかなり狭いことを示している。また、激しい個人攻撃なども起きかねないという、緊迫したものもあるのではないかとも推察する。
なので、アカデミー賞では、外国籍の監督がフューチャーされる時は、その動向を追っておいた方がいいのではないかと思う(残念ながら『ノマランド』は駄作だったが)。その作品は、白人が監督できなかった「なにがしかの壁」を乗り越えようとしている作品である可能性が高いのだ。
以上である。ご参考にしていただけたらと思う。