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著者紹介

夏目漱石(なつめ そうせき1867年〜1916年12月9日)享年49歳
日本の小説家・評論家・英文学者・俳人。本名:夏目金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍した近代日本文学の文豪の一人。
代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。講演録に「私の個人主義」がある。漱石の私邸に門下生が集まった会は木曜会と呼ばれる。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。
帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランベス区などに居住した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。
目次
- 上 先生と私
- 中 両親と私
- 下 先生と遺書
概要(ブログ主の勝手なまとめ)
謎めいた存在の先生(後半部の主人公)が、前半の主人公である「私」を魅了し、生活を先生の生活にあゆみを寄せつつ、日々を過ごす。その姿は、まるで父親を愛したゲイの息子のような同性愛的な文章である。
だが、ある時、主人公の父が不治の病に侵される。その書き方からして、おそらく梅毒だろう。
その父の病によって、実の父の存在は、日々重くなっていく。これまで実の父など無視するに値し、人生で重要なのは架空の父である先生だ、と思いこもとうした主人公は、戸惑う。
主人公に見捨てられた先生は、原稿用紙500枚くらいの遺書を送りつけてくる
そもそもが、先生には夏に再開して、また楽しく日々をすごそうと誓っていた。主人公はその年の前年に、大学を卒業し、一時的に故郷に帰っていただけだったのだ。
だが、父の状態が悪くなるに連れ、先生に会うための上京がしにくくなった。
実の父の望むような権威的な職業にもつけず、また、心の拠り所である先生にも会えない。
主人公は、何もできずストレスが高まる一方で、時間を無駄に過ごした。
そして、父の容態が一気に悪化した夜、主人公は先生からとてつもない量の手紙を受け取る。
手紙に書かれていたのは、先生のかつての親友だったKへの裏切りの告白
手紙には、かつて自殺させてしまったKという青年への先生の後悔の日々が長々と書かれていた。
主人公はその膨大な文章を読むのが面倒で、最後だけをめくって済ませようとした。だが、最後のページに書かれていたのは「これを読み切る頃には、僕はこの世にいないだろう」という一節。
父の看病をほっぽり出して、夜汽車に乗った主人公はその分厚い手紙を読み始めた。
先生はいかにして人間を信用できなくなったのか?
ここからが後半で主人公は「先生」にバトンタッチする。
Kと先生は、学生時代にとある富豪の家に居候していた。
そして、二人はその家の御令嬢に恋をするようになり、目に見えない駆け引きの日々を送っていた。Kは元々僧侶の家系に生まれていたが、親に勘当されていて貧しかった。
そして、ある日、Kが令嬢に告白しようと思って先生にアドバイスを求めた。
だが、先生はそのアドバイスをひん曲げて、Kに告白しないようにしむけ、その裏でこっそり自分がお嬢さんに告白をして、母親から結婚の約束まで取り付けた。
その後、Kは、自分の部屋で自分で生涯を閉じてしまった。
そのかつてのKを追い込んだ自らの行動を、呪いのように感じながら生きてきた先生は、それらの真実を主人公に伝え、主人公がその手紙を読み切ったところで、物語も終わる。
夏目漱石『こころ』の隠れた意味を探す
この小説では、明治天皇と乃木将軍の死が象徴的に扱われる。


夏目漱石は、インテリで留学歴もあり、実質的に日本が欧米列強に追いつこうとした世代にあたる。その中で、彼の定義する『こころ』とは、おそらく西洋式のものであると考えていいだろう。少なくとも彼が、西洋文化と遭遇してから後の『こころ』だというのは間違いない。
それゆえに、西洋化にカジを切って頑張った明治天皇と乃木希典に感傷的になったのだろう。
当時でも文化的な人あるいは文士(志賀直哉、武者小路実篤とか)は、反政府かつ自律的な活動をする傾向にあったが、夏目漱石に至っては最後にそれを捨てた。
その傾向が『こころ』には出ている。
夏目漱石の「こころ」=「mind(マインド)」
夏目漱石は「こころ」を管理できて、理想を目指すべき対象だと考えているというのは、本書の主人公をみてわかる。だが、現代の日本人は、そこまでストイックには考えないだろう。
現代人にとって『こころ』とは、思い通りにならないものだという前提がある。
現代人は、ネット社会によって、人間の中身の可視化・情報開示がなされて、それらの情報もたやすくゲットできるため、夏目漱石のようになんでもかんでも「どうして自分はこんなに不甲斐ないのか……」みたいな、イージーな悩み方をしなくなっていった。
小説としてのクオリティは、非常に高いが、ここが現代との親和性が高い太宰治と逆なのだ。
やがて、単なる受験文学になる運命の夏目漱石
よって、今後も夏目漱石『こころ』はどんどん人々に共感されなくなると思う。
このような自意識過剰な青年というのはある程度まで残り続けるかもしれないが、それを40〜50代になった先生のような世代が、振り返って一生悔やみ続けるというのは、今の膨大な情報に囲まれて、スケジュールもカツカツに詰められた現代人の人生では考えづらい。
それに、現代人は過去のどの世代よりも、ドラマチックな社会変革の中に生きている。戦争のような生命の危機はないが、命や生活を脅かされる回数自体は、増えている。
小説『こころ』は、かつての日本の優雅な男尊女卑を楽しむ珍味的な発酵食品
だが、この小説の中の人間関係の歪みの面白さは、現代人を惹きつけるだろう。
- 母親に結婚しろ、と言われたら娘は100%結婚する。
- 恋愛の前提にセックス以前にキスすら無い。
- どっちが愛されているのかわからないのに、勝手に悶絶する二人のエリート。
こういうのは、面白いしエキゾチックだから残るだろう。
今の日本からしたら、もう全てが異次元の外国状態だ。
Q:どのような人が読むべきか?
A:本書は大体の場合、受験対策としてとか、教科書に載っているから、という形で読まれる小説である。読書としての動機は、興味や好奇心というよりは、標準意識、義務感に近い。
私は、この小説を陳腐で無駄な過剰神経ノスタルジーだと思っているが、だからと言って、教科書から消えることはないと思う。お札から姿を消せば影は薄くなるが、その最たる人物の新渡戸稲造(国民に何をしたのか全く知られていない)ですら、教科書にいまだに載っている。
脇道にそれたが、ひとまず、現代文の受験対策としては、マストなので受験対策としては絶対読むべきだと思う。
あと『こころ』の小説としてのクオリティは低くはない。というか高い。
自分が小説家になるとしたら、最低このレベルは求められるので、そういう意識を持って読んだほうがいいともう。だが、もう伝説の人物だというふうに、拝みすぎる必要性は皆無だと思う。
Q:物語論としてはどうか?
A:物語論で作られた典型として『こころ』を語る学者や有識者がいるが、この小説は従来の物語論とは全く違う形式で書かれていると思う。大塚英志とかは『こころ』をジョセフ・キャンベル的な物語論で語っている。が、それは間違いだと思う。
物語の形としてはマルチチャンネル(二つ以上の別々のエピソードを繋げる)形式
『こころ』は、実の父と自分が父と決めたい人物の比較の物語だ。
これは、二列の物語を読者が比較しながら読み進める形に当然なる。
同様な形式のものとしては、新海誠『君の名は』や黒澤明『羅生門』など、と同じスタイルで、しかも面白いのは、主人公が実質的に「私」「先生」という二つのカメラアングルがあるところ。
そういう意味では、一般的な物語構成とは程遠い小説だと思う。
『老人と海』のヘミングウェイもそうだが、大家の小説家は最後の最後に、自分のこれまでの知名度を利用して、こういう実験的な小説を大衆的なヒットに繋げる傾向がある。
そういう意味では、夏目漱石はこの『こころ』一冊でいいということもできる。
とにかく、物語論としては、定型ではない、本来物語論という切り口で扱うべきでもない小説だと思う。物語論というのは、結構強引に、あれもこれも物語論で語れる的なことをしがちだ。
本書はオーディオブックとアマゾンオーディブルにも収録されています。