はじめに:諏訪敦彦『風の電話』を見て
最近、諏訪敦彦監督の『風の電話』という作品をアマゾンプライムビデオで見た。
その中で、いろいろと思うことがあり今回の記事を書いておこうと思った。
私の書きたいことを最初に端的にまとめておく。
- 即興演技は、歴史的に日本映画に求められている演出方法
- 国際的な評価は得やすい分、作品のクオリティは不安定になりやすい
- 1作品だけはなく、長きに渡ってこだわっていないと評価はされにくい
- 低予算映画のグレードを上げるものの、俳優の個人能力に依存する
- 撮影現場では盛り上がるが、編集するとカットされやすいシーンが多い
『風の電話』はアマゾンプライムやU-NEXTなどで視聴できます。
諏訪敦彦のプロフィール
諏訪 敦彦(すわ のぶひろ、1960年5月28日 – )は、日本の映画監督。即興的演出技法で知られる。母校である東京造形大学学長を2008年から2013年まで務めた。東京藝術大学教授。
代表的な作品
2/デュオ(1997年)
M/OTHER(フランス語版)(1999年)
H story(英語版)(2001年)
不完全なふたり(2005年)
ユキとニナ(2009年)
ライオンは今夜死ぬ(フランス語版)(2017年)
風の電話(2020年)
映画『風の電話』基本情報
『風の電話』(かぜのでんわ)は、2020年1月24日公開の日本映画。岩手県上閉伊郡大槌町の電話ボックス「風の電話」をモチーフとする。第70回ベルリン国際映画祭で準グランプリに該当する国際審査員特別賞を受賞。
キャスト
- ハル:モトーラ世理奈
- 広子:渡辺真起子
- 公平:三浦友和
- 妊婦:山本未來
- 森尾:西島秀俊
- 今田:西田敏行
- その他にもカメオ出演として三宅唱監督が出演しており、エキストラにも福島県の東日本大震災被災者の当事者やクルド難民などの当事者が多数出演している。
スタッフ
- 監督:諏訪敦彦
- 脚本:狗飼恭子、諏訪敦彦
- 企画:泉英次
- プロデュース:泉英次
- プロデューサー:宮崎大、長澤佳也
- 音楽:世武裕子
- 撮影:灰原隆裕
※太字にした泉氏と宮崎氏は、三度目の共同制作となる。
『スイートリトルライズ』(2010:江國香織原作)
『セトウツミ』(2016:此元和津也原作漫画)
私の本作への評価
私が本作を見て感じたのは、諏訪敦彦監督作品の中でかなりクオリティが低い、ということである。だが、あくまでこれは日本人としての私の評価だ。
勘違いしないで欲しいのだが、私は国際的な視点では、この映画が制作されたことに関しては高い評価をしている。
それはどういうことか? 続けて述べていく。
諏訪敦彦監督の即興ものの高レベルの作品は『ユキとニナ』
私は、諏訪監督の作品を結構見ている。
その中でも一緒に映画祭に参加した作品が一つあり、それがフランスで製作された『ユキとニナ』だ。この作品は結果的に、今のところ諏訪監督の作品で最もクオリティが高いと思う。
その理由は、子供に即興演劇をさせて長編を作るという試みのせいだ。
子役は台詞や脚本の理解度を上げるのが難しく、演技指導も通じないことが多い。しかも、彼らを対象にした脚本自体を大人が描くことの困難さも大きい。
そんな中で『ユキとニナ』は、子供の情報を使って脚本を作り出し、台詞や動きの自然さを活かしつつ、誰もがやったことがない複雑な感情表現を可能している。
これは、脚本に軸足をおく映画監督が絶対できないことだ。
つまり、即興演技が真に生きるのは、当事者性がリアルさや情報量を兼ね備えた時に際立つのである。もちろん、これについては世界的な第一人者である諏訪氏が最も理解しているはずだ。
『風の電話』の評価シミュレーション
即興演技の映画は、俳優の演技っぽさを否定する監督によって、フランスを中心に多く作られてきたが、1980年代以降は、スタジオシステムの崩壊によって低予算化を強いられた日本でも多く撮影されてきた。多くはシーンを割らずに、長回しを多用するため、撮影コストが抑えられる。
だが、監督のコントロールできない芝居を引き出すため、リスクが多いことでも知られる。
日本人には震災の当事者ではない、モトーラ世理奈の即興が “芝居がかって酷く”見える
諏訪監督の『ユキとニナ』が、優れていたのは、子供という配役において当事者である子供を採用し、彼女たちの即興で構成したため『大人が脚本に書けないリアルな子供』を演出したところにある。キャストの当事者能力によって情報量を多くするのが、即興映画の醍醐味だ。
その流れでモトーラ世理奈の作品での芝居を見ていくと、日本人には『当事者意識がなく、単なる若い演技経験の浅いモデル女子が、感情芝居で騒いでいるだけ』に見えやすい。
私たち日本人はモトーラ世理奈の芝居から「被災者の気持ちがわからない」ことをおそらく瞬時に見抜く。だが、だからと言って、ある意味想像力がありすぎるので、被災者の悲しみかがどうであったかまでは、深い闇すぎてわからない。
現実として、当事者だったとしても、悲しむアクションはそれほどバリエーションが豊富ではないので(泣くとか大声を出すとか)、モトーラ世理奈と同じだった可能性ももちろん高い。
国際映画祭の審査員の視点:モトーラ世理奈やテーマへの認識の違い
では、これはあくまでも私のシミュレーションだが、国際映画祭の審査員がこの作品を見て、モトーラ世理奈を見たらどう思うかを想定していく。
- 海外の人間から見て、モトーラ世理奈は被災の当事者とたいして変わらない
- ハーフのモトーラ世理奈に意味を見出す(劇中でクルド人問題が扱われる)
- 日本人の感情表現のルールは、海外と大きく違う(演技への評価の違い)
- 国際映画祭で、事件・政治的問題に賞を与えることは独自の意味がある
- 即興の達人の諏訪敦彦を「史実的映画」で起用したことに、深い意味を感じる
- 欧州の映画祭は、脚本の再現性を軽視する
これらが、実際私が想定できる国際映画祭の評価ギャップだ。
かなり多いし、日本人からするとほぼ誤読と言っていい要素も少なくない。
だが、国を超えて評価を得るというのはえてしてこのようなものなのだ。
国際映画祭の審査期間は、かなり短い。
長くて2週間。大体は3〜4日で、先行してプレスや授賞式の手配(監督・スタッフを国内にとどまらせるなど)もあるため、実際はもっとタイトであるケースの方が多数派だろう。
その中で、これらの条件を考えるとベルリン国際映画祭の準グランプリとして評価されたのは妥当に思える。この辺は、プロデューサー布陣の泉氏と宮崎氏にはある程度計算できた点だとも思う。
国際映画祭で「日本映画への誤読」は、利用するもの
まとめると、私が言いたいのは海外という市場で戦う時、内容への誤読はどうしても避けられず、それをわかりやすく説明する、というのはある種間違っている、ということだ。
歴代の日本映画が、海外で高い評価をえる時、必ず誤読が存在していたはずだ。
なので、むしろ、誤読を意図する、そこまでの流れを作っておくことの方が正しい。
そういう意味で、この『風の電話』のスタンスは、言い方が悪いが『戦略的で練られた(誤読:評価の横幅)への豊かさ』があったように思う。
いかがだろうか。
ここで書いたことはあくまで私のシミュレーションだが、国際映画祭というもの実際もこういう評価ギャップに支えられており、それは実質は『誤読』なのだ。だが、相手を研究し、準備をすれば、その誤読に豊かさを与えるような仕掛けをしておくことはできる。
また、日本人だけが気にするような部分で無駄なコストをかけずに済むことも少なくない(当事者を主人公にするとか、ロケ地をリアルにするとか等)。
あくまでこれらは、低予算で作品を作ることが基準だ。
だが、ハリウッド映画で結構よくみる「変な日本人」登場人物なども、これらの前提でみると、必ずしも不快ではなくなると思う。そういう意味で、知っておいて欲しい前提だと言える。
『風の電話』はアマゾンプライムやU-NEXTなどで視聴できます。