現役映画監督が読む。ボケ老人の蓮實重彦による自己正当化の末路。誰も引き継いでくれない映画理論の行末『ショットとは何か』感想・概要

オーディオブック

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目次

  • 1 『殺し屋ネルソン』に導かれて
  • 2 物語を超えて
  • 3 映画崩壊前夜とショットの誕生
  • 4 「理論」的な問題について
  • 5 ショットを解放する

内容

下北沢で立ち見した『東京物語』、青年の心を掻き乱した『殺し屋ネルソン』『大砂塵』にはじまり、西部劇、ミュージカル、「演出」の映画と「撮影」の映画を論じ、ドゥルーズを叱る。リュミエール兄弟から濱口竜介まで、映画の歴史と魅力を縦横無尽に語り尽くした比類なき映画論!

著者情報

蓮實 重彥(1936-)

1970年代、東京大学教養学部講師になり、立教大学一般教育部非常勤講師を併任して「映画表現論」を講義。その講義を聴きに来ていた黒沢清、青山真治、周防正行など、のちに学生映画ブームを牽引するメンツを育てたとされている。

また、翻訳した『ゴダール全集』『ゴダール全シナリオ集』(柴田駿監訳)、『ゴダール全エッセイ集』(柴田駿監訳、保苅瑞穂との共訳)の刊行が開始。以後、フランス映画の本格的なブームを牽引していき、専門以外の書籍でもインテリに多く読まれる存在となっていく。

権威者としての惨めな末路

蓮實は口では権威を否定しつつも、実に長らく権威者として論壇に君臨してきた。

1980年代産まれ以降の人間はそのことをあまりしないかもしれない。

だが、その影響力は強く、特に映画に関しては権威の強さが際立っていた。2010年代くらいになって表舞台から姿を消すまで、彼の著作は「理解できないのは低俗」という言われ方をされていた。

今では発行部数も激減して見る影もない『映画批評』『キネマ旬報』なども、発行部数がそれなりにあった1990〜2000年代でさえ、蓮實には逆らうことがなかった。

とてもソフトで丁寧な口調で、自分以外の権威者を否定するところが蓮實にはあったのだ。

ダメなところが、自覚的にも無意識的にも出た書籍『ショットとは何か』

いきなりだが、私の考える蓮實重彦の時代に適合できず、ダメだった部分、取りこされた部分を以下にまとめてみたいと思う。読みたくない人は、読まない方がいい。

  • 映像撮影の現場を知らない(スマホ以前だからしょうがない)
  • 興収が落ち始めた劇場公開を、無理やり権威づけした(学者としての立場を悪用)
  • 劇場にこだわり、DVDや配信をバカにしすぎた(本書で無かったことにしている)
  • フランスとアメリカの映画をいい加減に組み合わせる理論を確立
  • 日本未公開作品をいい加減に語りすぎた(見れる時代が来るの想定していなかった)

“映画の崩壊”や“映画の死”を多用するのに定義しない言説

ウソや逃げばかりのなんちゃって “映像論”

『ショットとは何か』で、映画の撮影に関して述べられるのは、ほんの僅かである。

それは、蓮實重彦自身が学者であり、映像作家ではないのもある。だが、知ろうとしなかった、もしくは、このように映像制作が一般化する世の中を予見できていなかった、というところも大きい。

彼自身が曰く、学者が語る映像理論は、作家の視点とは異なる。以前も、そしてこの『ショットとは何か』でもその点は変わらない。だが、彼の評価は結果として、低評価をすれば作品の質は下に見られることが多かった。生前の伊丹十三もそれに苦しんだ

話題性と興行成績を両立した伊丹十三は、伊丹十三が師と仰いだ蓮實重彦からひたすら無視をされることになる。後年もそのことに伊丹は悩み続ける。蓮實重彦は、このように「権威を否定して」自らが「権威となる」パターンが少なくない。彼は伊丹十三に何が悪くて、どこが良くなれば、という話は一切したことがない。

キラーワードを使いつつも、何も語らない“お騒がせ出版法”

70年代から2000年ごろまで、映画監督よりも映画撮影を知っているかのような評論を乱発していたが、スマホの台頭でほぼ国民の9割が映像撮影経験者になる時代が来ると、時々その過去の語りすぎを謝罪したり、反省するふりをするようになる。本書にもその傾向がある。

現実的に映像社会が人々に迫ると、何をしても一般大衆にバレるようになる。その中で本書『ショットとは何か』は、今までの蓮實自身のいい加減さを、補正して自己弁護する書籍となっている。

例えば、本書『ショットとは何か』第3章『映画崩壊前夜とショットの誕生』では、「自分は、映画の崩壊なんか言ってません」とか「ショットは最初からありました。誕生はしてません、発見するものです」といういい加減な後付け理論を展開し、自己正当化を連発している。

これは蓮實がずっと1970年代から続けてきた言説であり、単なる彼の言葉遊びの才能を見せつけるもので、それゆえに伊丹十三や弟子の黒沢清でさえ、迷惑に翻弄されてきたスタイルだ。

蓮實重彦の代表的な勘違い「長回しの美化しすぎ」問題

特に、愛弟子の一人で私の恩師でもある黒沢清と文芸誌で対談などをするときに、その語りすぎのへの悪影響は、黒沢清の困惑の記述などに2010年ごろから現れるようになってきた。黒沢清との対談では、黒沢が「……」となったり、「まあ……」といって言葉を止めるシーンがかなり多い。

それは一言で言うと、「現場であんたの美しく語る文体のような撮影はしていない」ということだ。例えば、蓮實重彦が盛んに誉め、美しい文体で語る「長回し」などがその最たるものだ。

もちろん効果的に俳優の自然な演技を引き出したりするために「長回し」を使う監督もいる。だが、黒沢清との対談で頻繁に「実はお金がなくて」「スケジュールがその日しかなくて」という返答を目にする。スタッフもその対談を読む可能性があるので、近年は黒沢清も正直に否定するようなった。

そもそも、フランス映画の長回しも予算とスケジュールの問題解消のためだったのだ。蓮實重彦は、おそらくある程度評論を出した後まで、この現場感覚を気がついていなかった可能性が高い。

このことをおそらく最近気づき始めた蓮見は本書『ショットとは何か』で、長回しの美化を控え、むしろ過去の言説を否定するような「記憶喪失のふり(私は忘れやすいんです)」を連発している。

蓮實の功績:言葉じりの補正、知識の補正

蓮實重彦の予測は外れまくる。作家への眼力もない

しかしながら蓮實重彦がここまで権威的でいられたのは、ワケがある

彼の言い回しの多彩さ、例えの面白さといった面は、インテリの小難しい文章を読むのにプラスして、本好きをある程度今でも楽しめるのが本書を読むとわかる。要するに言葉遊びに優れ、曖昧な言葉ばかり本人は使うのに、他人の言葉への厳密な断罪は鋭いのだ。

例えば『ショット』、つまり1920〜1930年代の日本人が英語を誤って解釈して『カット』と読んでいた言葉がある。黒澤明も小津安二郎も、最小限の映像を「カット」と呼んでいた。この業界の風習への反旗を翻したのは、この蓮實重彦である。

この『ショット』、つまり最小単位の由緒正しい定義が蓮實重彦の代名詞になってしまいその皮肉で悲しい側面が本書『ショットとは何か』の書名となっている。これは本書を読むと著者が意図的につけていることがわかる。

ちなみに蓮實がいう『ショットとは何か』というのは、効果的に映像演出を取り込んだある種表現の成功したショットのことを集中的に語っている。

全体像としてはたったそれだけのことしか言っていない。

その「うまいショット」がある映画は正しい、ないと正しくない、という、言いたいことはわかるが、作る方からしたら傍迷惑で曖昧な断罪が本書では乱れ打ちされている。

Q:どんな人が読むべき本か?

A:蓮實重彦の書籍の中では読みやすい

本書は編集者(インタビューアー)による聞き起こしを主にしている書籍だ。それゆえ、1970〜90年代の蓮見の書籍のような捻くれた難しさはない。読みやすい。

ドゥルーズ『シネマ1・2』やボードウェル『フィルムアート』を慌てて否定

かつて自分が学生たちに拝むように仕向けたドゥルーズを全否定

見ものなのは、過去の蓮實重彦が正当かつ世界基準と定めた映像理論書を、やっぱり変な書籍でした、名前に騙されました、と自ら恥ずかしく否定してところだ。その筆頭が『シネマ1・2』で悪名が高いドゥルーズである。

蓮見は、結論として「ドゥルーズをほとんど見ていないのに適当に理論書を書いた」と断罪している。この恥ずかしさは、私も吹き出しそうになった。進めたのお前やん(笑)。

ちなみに、『シネマ1・2』を、英文科の大学院のゼミで私も原文と比較して読まされたが、日本語がメチャクチャで誤訳も多く、全く書籍としての体裁をなしていないと言われていた。蓮見はようやくこのダサい、なんだか難しいことが書いてあるような、書いていないような書籍を否定した。

このように映像産業に従事する人には、かなり有益な蓮見の路線変更の情報(笑)が掲載されている。

もし万が一、あなたやあなたの周りに蓮實が勧めたから、といって古い映画理論の書籍を使っている学者や理論家がいるなら、それこそ全てを投げ捨てて最初に読んだ方がいい書籍となるだろう。

ついでに基礎書籍『フィルムスタディ』への悪口を連発:関西学派への攻撃

ちなみに、本書『ショットとは何か』では名古屋大学大学院をはじめとした中部・関西・九州系の映像系大学で1990年から2000年代にかけて、経典となった『フィルム・アート』もこき下ろされている。もしかしたらドゥルーズだけだと自分が惨めなので、バランスをとったのかもしれない。

だが、正直『フィルム・アート』はまだドゥルーズよりかなりマシで、現代でも使い所がある、それなりに優れた書籍だと私は思う。そのことは過去にこのブログでも書いている。

関連記事:フィルム・アート―映画芸術入門:名古屋大学出版会は、映画製作者・映像系学生が読むべき本か? 裏要約・概要

以上。本書を通して、ぜひ若い人は、どういうふうに日本の映像理論学系が勃興して、そして崩壊してしまったのかを知ってほしいと思う。とてもいい参考書になると思います。

『ショットは何か』は、アマゾンオーディブルの読み放題で読むことができます。1ヶ月〜無料。

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